本場所初日前日には、立行司(不在の場合は三役行司)を祭主、幕内行司・十両行司各1人を脇行司として、「土俵祭」が行なわれる。
これは、相撲にかかわる神を土俵の守り神とし、天地長久・風雨順次・五穀成就を祈願するとともに、相撲にかかわるすべての事柄に神の加護があることを祈願するために行なわれるものである。
まず脇行司が「清祓いの儀」を行ない、続いて祭主が祝詞を奏上。次に脇行司が土俵の四隅に幣を立て、中央に献酒をする。そして、「方屋開口」の故実を言上する。
土俵祭は「方屋開き」とも呼ばれ、この故実言上が重要な意味を持つことが分かる。
現在述べられている口上は、行司によって多少異なるが、たいした違いはない。時代によって、内容が付け加えられたり、また、かなり違う口上が述べられていたことがある。
以下に例を挙げる(句読点を修正、適宜ふりがなを付与)。まず、寛政3(1791)年に行なわれた将軍上覧相撲の時には、次のようであった(引用原文は『ちから草』吉田長善・編、昭和42・1967年より)。
あめつちひらけはじめてより陰陽わかり、きよくあきらかなるものは陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。おもくにごれるものは陰にして下にあり、これを負けと名づく。
その後、天保12(1841)年に21世吉田追風が木村玉之助に「方屋
是を
形有て前後左右東西南北と云是を
方屋と
今初て方屋と云
日本相撲協会発行の本場所パンフレットに記されていた口上は、次のとおり(原文にふりがななし)。
現在述べられているものは、上記が“基本”になっているようだ。行司によって多少口上は異なり、たとえば、29代木村庄之助の場合は、「天地開け始めてより」は「天地開け始まりてより」、「陰陽を分かり」は「陰陽に分かれ」、「清く明らかなる」は「澄め明らか」、「
また、33代木村庄之助の場合は、「天地開け始まりてより」・「陰陽に分かれ」、「
これらとはまた違った口上もあり、たとえば昭和6(1931)年頃には、次のようであった(引用原文は『力士時代の思い出』藤島秀光・著、昭和16・1941年より。ふりがな一部削除)。
一つの兆し有って形となる。形成りて前後左右を東西南北之を
「一つの兆し…」以降はほとんど同じだが、前半部分はだいぶ違う。これまでの口上にあった「陰陽」云々の代わりに、「天地」で勝ち負けを評している。
また、「方屋」ではなく「片屋」となっているが、「かたや」の表記は両方ともあるので問題ない。「かたや」とは、江戸時代に力士の控え所(今で言うところの仕度部屋。当時は露天興行)には、片方だけひさしが掛けられていた。それを「片屋」や「方屋」と呼び、のちに相撲を取る場所全体を呼ぶ言葉に変わって行った。
すなわち、「方屋開口」とは、「今から相撲場を開く」というような宣言と言える。事実、本場所だけではなく、力士の所属する部屋や稽古場の新設や移転・改築の際には「土俵開き」が行なわれ、その部屋の行司などが「方屋開口」を奏上している。
行司によっては、「俵をもって形となす…」ではなく、「俵をもって関所となす…」と述べる場合がある。いずれにしても、どういった口上を述べるかは特に決まりがない。先輩の口上を参考に、自分なりに加除して奏上しているようだ。
この「方屋開口」故実言上のあと、土俵に鎮め物をし、脇行司が参列者に御神酒を捧げ(
制作・著作:紅葉橋律乃介(momijibasi@yahoo.co.jp) | 口上入口へ | 行司入口へ | 銀河大角力協会総合入口へ |
平成十九年六月二十五日新設